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アウトサイダー

書誌

authorコリン・ウィルソン
editor中村保男(訳)
publisher集英社文庫
year1988
price800
isbn4-08-760140-4

目次

1感想
2抄録
3233-234

履歴

editor唯野
?読了
2016.12.20.公開

相当昔に読んだ本で、かなりの時間を置いて読書ノートにした本である。いうまでもなく本書はコリン・ウィルソンの名を一躍世に知らしめた一冊であり、アウトサイダーという生き方に対する最終的な答えを示すものではないが、それでも分かりやすい類型化を行なっている。24歳にしてこの本を書いたという辺りで、芥川に近い天才さを感じるが、コリン・ウィルソン自身がアウトサイダー的だからこそ、自我への問いを彼なりの実存主義というかたちで問い詰めた結果としての本なのだと私は考えている。

正直なところ私にいわせてもらうと、現代では誰もがある意味でアウトサイダーというか、そういう側面を持っていて当たり前という感がある。つまりアウトサイダー的側面はマイノリティに見えて実はマジョリティであり、ただそのアウトサイダーとしての内面が個々人によって幅を持つので当人にとってはマイノリティに感じられるというか、それを打ち明けられる相手を持ちにくいゆえのマイノリティ――そういう風に感じている。だから、本書が現在でも読み継がれている理由の一つは、そういうアウトサイダー的葛藤の解決を求める人が本書を求め続けるからであり、当然そういう部分は私自身にもあてはまる。

しかしながら冒頭にも書いたように本書がその答えを提供するのかといえばノーだ。そこがアウトサイダーの悩みの難しいところなのだが、その難しさが分かるだけでも一筋の光明にはなり得る。この本はそういう本なのだと思う。

抄録

12

「アウトサイダー」が社会に対立した存在であることは、以上のことから明瞭である。すべての男女は、このような危険で名状しがたい衝動をもっているにもかかわらず、自分にたいし、他人にたいして偽装をやめない。彼らの尊厳も、哲学も、宗教も、すべてが、野蛮で、無統制で、不合理なものに艶だしを塗って、なんとか文明的、合理的なものに見せかけようとする試みにすぎない。彼自身は、真理を旨とするがゆえに「アウトサイダー」なのだ。

これはバルビュスの物語に登場するアウトサイダーについてを述べた箇所。

14-15 cf.22

-/-ブルジョワの自己満足的な世界認容の態度に歯むかって、「アウトサイダー」が無政府主義的な感情を吐露することがあれば、それは、ただ世間の見栄を思いきり侮蔑してやりたいという気持からだけでなく、どんな犠牲を払っても真理を述べねばならぬ、そうする以外に究極的な秩序の回復は望みえない、というぬきさしならぬ気持から発しているのだ。たとえ前途に望みをかける余地がまったくないとしても、真理は述べられねばならない。-/-

23

ポリー氏(訳注・ウェルズの小説『ポリー氏の経歴』の主人公)の発見した信条「自分の生活が気にいらぬなら、それを変えることができる」から、「出口もなく、回り路もなく、抜け路もない」という絶望にまでいたる距離は、きわめて長い。バルビュスは中途まで行った。道すがら、彼は「真理とはいったい何を言うのか ?」と質問し、その当然の帰結として、「変化によって、どんな違いが生じると言うのか ?」と問うた。ウェルズは全行程を踏破して、「思想は生を否定せねばならぬか」という実存主義的問題の門口にわれわれを導いた。

24-25

-/-つまり、「アウトサイダー」とは、物事を見とおすことのできる孤独者なのだ。それは不健全で神経病的な人間にすぎぬとする反対論にたいして、ウェルズの主人公は答える――「盲人の国では片眼の人間が王である」。要するに、病におかされていることを自覚しない文明にあって、自分が病人であることを承知しているただ一人の人間が「アウトサイダー」なのだというのが、彼の主張である。本書でのちに問題とする「アウトサイダー」のなかにはこれをさらに推し進めて、病にかかっているのは人間性そのものであり、この不快な事実を正視する人が「アウトサイダー」であるとさえ断言するものがある。-/-

26 cf.56-57

ニーチェとキルケゴールは、「アウトサイダー」から端を発した一つの哲学を展開した。今日われわれは、この哲学を呼ぶのに、キルケゴールの表現にしたがって実存主義という言葉を使う。一九二〇年代にキルケゴールのドイツ語訳が再版されると、教授連はすぐさま彼を問題としたが、肝心の宗教的な結論をぬきさってしまい、いわゆる「実存哲学」を構築するために、彼の分析方法を利用した。そうすることによって、彼等は問題の重点を「アウトサイダー」から引きはなし、再びそれをヘーゲル的な形而上学に押しもどしたのである。のちに、実存主義はフランスでサルトルやカミュの作品によって一般化されたが、この二人は重点を再び「アウトサイダー」にもどし、遂には、いかに哲学を生くべきかの問題について独自の結論に達した。すなわち、サルトルは「参加の理論」(のちに言及する)に、カミュは、「アウトサイダー」でありつづけよという信念に、それぞれ到達した。これらの結論を逐一、検討する必要があろう。

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