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マイ・ロスト・シティー

書誌

authorスコット・フィッツジェラルド
editor村上春樹(訳)
publisher村上春樹(訳)
year中公文庫
price1984
isbn12-201134-5

目次

1感想

履歴

editor唯野
1997.5.12読了
1998.6-7 ?公開
2002.11.28修正

既におなじみといってもよい村上春樹訳のフィッツジェラルド??その中でも恐らくは最もフィッツジェラルドという人を象徴しているであろう短編を集めた作品集である。それはすなわち、私の中のフィッツジェラルド像にとって...という意味合いも含めるのであるが、つまりは輝かしい栄光との対比によってもたらされる退廃であるとか終末への予感、取り戻すことのできない何かに満ち溢れた、とでもいうべき種類のものということである。

訳者は本書の序文でフィッツジェラルドとの接触こそがいかに自分にとって衝撃的かつ大きなものであったのかを、その文学的検証に交えた“フィッツジェラルド体験”として語っている。いわく「彼ら(ドストエフスキー、バルザック、ヘミングウェイらのこと:唯野注)は言うまでもなく立派な作家だ。しかし彼らは僕のための作家ではなかった。-/-彼が僕に与えてくれたものがあるとすれば、それはもっと大きな、もっと漠然としたものだ。人が小説というものに対して(それが書き手としてであれ、読み手としてであれ)向かわねばならぬ姿勢、と言ってもいいかもしれない。そして、小説とは結局のところ人生そのものであるという認識だ。-/-もしフィッツジェラルドに巡り合わなかったなら、僕は今とは全く違った小説を書いていただろう。それだけは確かだ。人が小説に出合うというのはそのようなものなのではなかろうか、と僕は考える。」[p.15-16]と。そして、彼自身によるフィッツジェラルドの文学的意味とは私なりに解釈すれば次のようなものである(本文はコピーに譲る「フィッツジェラルドの小説世界」[p.16-21]、なお[p.23-31]はその生涯の解説)。すなわちフィッツジェラルドにとっての輝かしい栄光とその時代とは、それは後になってみれば(それ自体が)来るべき崩壊への因子なり序章であったのだということ。そして、その後の世相と彼の境遇は、まさにその彼が失い取り戻そうとした*実在*の穴に、彼が生来見い出そうとしていたイマジネーションと幻滅との間の*実在*??との一致に彼自身を駆り立てていったのだということである。もちろん(ここから先は私論)、その求める*実在*が、(現実には)空虚な*実在*なのであることはいうまでもないことであるが、逆にいえばその実在性こそがフィッツジェラルドのフィッツジェラルドたるゆえん、もっといえば彼自身が長く追い続けた答えとも最も近い場所として認識されてよいのではないかということである。(また、そういった実在の感覚こそが彼の前述した作家に対しての二流たるゆえんでもあると彼(村上)は語っている。

このような予備知識も踏まえた上で本書に収録されている6つの短編を読んでみた場合、訳者は本邦未訳の作品を選んだとはいっているものの、やはり作品全体が先に述べたような雰囲気を持つ物語で統一されていることは疑いようのないところである。とはいえ、私個人は表題作にもなっている「マイ・ロスト・シティー」などは逆に露骨な追想の色の方が強く感じられてあまりおもしろいとは思わなかった。「そこに存在するのは紛れもない私の失われた街であり、それは謎と希望にひっそりと包み込まれていた。しかしそのような傍観者的な立場は長く続きはしない。労働者たちが街の腸の中で生きねばならないように、私はその混乱した精神の中に生きねばならなかったのだ。」[p.210]などというあたりも、私にとっては単なる望郷の念、もしくは過去に対しての遠いつぶやきとしてしか聞こえなかったからである。

それよりは、はじめのふたつの作品「残り火」と「氷の宮殿」の方が断然おもしろい。特に「残り火」などは「華麗なるギャッツビー」などよりも私にとっては感じるところの多い作品だった。もちろん、全ての言葉を崩壊への予感などという一言でくくってしまうのは作者に対して失礼であるのかもしれないが、それでもそれと思わせる箇所はあたかも組み込まれた歯車のように作中にたびたび登場する。

「「マージェリー・リー」と彼女は声に出して読んだ。「一八四四?一八七三。ねえ素敵じゃない?彼女は二十九で死んだのよ。いとしいマージェリー・リー」と彼女はそっとつけ加えた。「ねえ、ハリー、彼女の姿が想像できて?」」[p.91]。これなどもフィッツジェラルドのいわんとしていることは、短いながらも栄えあるままで生涯を閉じた人物に対する想いの箇所なのではないかと私などには思えてくる。そして、それらは次第にどうしたって彼らの世代が共通して持っていたのであろう、時代の意識の代弁としかいいようのない箇所へとつながっていくように見えるのだ。「タクシーの中でドナルドはゆっくりと首を振った。彼はもうすっかり自分をとりもどしてはいたが、その夜に起こったことをまだうまく呑み込めずにいた。飛行機が轟音とともに暗い夜空に舞い上がり、乗客たちが眼下の絡みあった世界から切り離された存在に変化していく頃、彼もようやく高みに立って物事が見えるようになっていた。その目もくらむ五分のあいだ、彼はまるで狂人のように二つの世界を同時に生きた。彼は十二歳の少年であり、また同時に三十二歳の大人でもあったのだ。そしてその二つは離れがたく、手のつけようもないほど混じりあっていた[「失われた三時間」/p.174]。なぜなら、このようなくだりこそはそのまま「それこそが、私たち(つまりは*失われた世代*)なのだよ」とフィッツジェラルド自身が語っているかの如く私の耳元に響いてくるからである。

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