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裸のランチ

書誌

authorウィリアム・バロウズ
editor鮎川信夫 山形浩生(訳)
publisher河出書房新社
year1992
price2,900
isbn309-20185-7

目次

1感想

履歴

editor唯野
1999.9.0x読了
1999.9.12公開
2002.11.28修正

20 世紀のアメリカ文学を代表するジャンキー小説の金字塔。これは「アメリカが生んだ」数少ない新しい物語のかたちにおける、その代表作である。そんな麻薬中毒者たちの視点による文脈を無視した物語が、なぜ今も新しい読者を獲得し続けているのかといえば「実はこの本自体が一種の麻薬なのだ」というより他に説明のしようがないと思われる、そんな本である。

この作品はクローネンバーグによる映画化に象徴されるような近年のバロウズの復権運動の中で復刻 + 増補されたものである。映画は(確か)予告に出てくるバロウズが妻をウィリアム・テルごっこで射殺してしまう下りぐらいにしか覚えがないのだが、それが実話であるということくらいで驚いてしまったのでは、本書を最後まで読み進めることはできないだろう。それくらい刊行当時には(現在でも !?)毀誉褒貶のなされ禁書ともなった書物であり、解説にもあるようにこの本くらい読者の好き嫌いの分かれる本も少ない??そういう種類の本だからである。

それだけに、はっきりいってしまえば通俗的な意味での「正常-異常」の概念そのものが本書の前では児戯に等しい。それでいて(加えて)既存観念の突破などには少しも意味を持たせようとしていないのだから、センセーショナルな評価をされるのは当然といえばあまりにも当然である。しかしながら、解説では、この議論のための実に明快なる答えが用意されているので、引用してみようと思う。

-/- B (いや、これは文学作品であってわいせつではない:唯野注) はほとんど意味をなしていない。文学性や芸術性の有無と、わいせつ性の有無とはまったく無関係であり、この二つは十分に両立可能である。そして、A (これはただのわいせつ文書である、よって検閲すべきだ:唯野注) は説明不足。わいせつ文書を検閲しなくてはならない、という考えの背後にあるのは、読者への不信であり、それを読んだ(あるいは見た)人びとを改心させるコストに対する過大な見積りである。それを明確に説明できない限り、この二つは決して収束しない。そもそも収束させるつもりなど一切ない人びとがやっている議論なのだから、当然ではある。『裸のランチ』検閲の是非をめぐる議論も、結局はすれちがいに終わっており、考古学的価値以上のものはない。(p.322)

実は、この解説を書いたり序文やらを訳しているのが山形浩生氏で、なるほどな...というか妙な得心がいった次第だった。まあ、個人的に一方では、こうやって様々な補遺の行われることによって(分かりやすさが補われることにより ?)本文がストレートに持つ物語の威力も弱くなってしまっているように感じたのだが...

本書では(全体でさえ意味を持たないのであるから)部分の引用もやらない。私自身はこの本を読んで非常に(うまいいい方が見つからないがとりあえず)「おもしろかった」。しかし、だからといって万人に薦めるのかといえば自信がない。この書評が元で本書を読まれた人の結果にまで責任を負うだけの自信がないからである。だから、あくまでも読まれるのであれば at your own risk で、としかいいようがない。

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