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読書術

書誌

author加藤周一
publisher同時代ライブラリー
year1993
price850
isbn0-260139-0

目次

1感想
2抄録

履歴

editor唯野
2000.1読了
2000.2.27公開
2000.3.2修正

極めて明快に読書のツボをおさえた本。内容的にも私自身の読書法や考え方と近いところがいくつもあって(例えば寝ながら本は読むなど :-))、何とはなしに勇気付けられた感じがした。特に読書を変に権威付けしたりするのは私も嫌いであり、私自身、読書の基本は乱読であるというところにより「身の丈の高さから出発する趣味のひとつ」としての読書観には大いに共感させられた。更には、速読術も「本によって自分で速さを決めて読めばそれでいい」と考える私の持論と同じであり、何かとうなずきながら読むところの多い本だった。

まあ、本書のおかげで自分にも妙な自信を持つことができたことだし、これからも乱読道の積読道を邁進することにしよう :-)

抄録

7-8

読書はテレビや映画よりも自由度が高い。しかし両者はメディアが異なるのであるから楽しみ方も異なるのであって、一概に「読書は能動的で映像は受動的」ということはできない。

16

読書を机から離すことが読書にとってもいいのではないか。必要な場合は別としても、それ以外ならば読書が机に縛られる必要はないのではないか。

20

旅と読書は日常からの飛躍という点で似た部分を持つ。

29

何かのできないことを嘆くよりは、そこでもできることを探すということ。そういうときにできることのひとつとして読書はある。例えば通勤電車の中など。

41/53-54/88/93

読書の読むスピードは本によって合わせるべきであって、あらゆる本を一定の早さで読むというのは適切でない。一般に古典(東の論語、西の聖書など)は腰を据えて読んだ方がよいが、自分自身の問題を考えるために古典を選ぶという接し方もありえるのは当然のことで、そういう場合では古典の歴史的意義が二次的となるのも当然のことである。というよりは、誰しも本を読むときには、その本の中に自分を読むものだといえるからである。

また、古典はある程度の読書があって初めて自分としての興味が湧くという部分もある。つまり、飽きかけたときになって初めて自分としての関心の生まれてくる部分があるのだということ。そして、これが逆に起こることは考えにくい。

これとは別の予備知識なしに何も分からずに古典を読むという場合もありえる。しかしながら、これも立派な読書のひとつといえる。なぜなら、そこで接するのはマルクスその人なり親鸞その人だからである。

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