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行動学入門

書誌

author三島由紀夫
publisher文春文庫
year1974
price340
isbn712401-Y

履歴

editor唯野
1995-97 ?読了
1998.10.31公開
2002.4.9修正

三島がその死の直前くらいに書いたエッセイ類をまとめた感じの書物。ここには三島独特の美意識と、行動によって貫徹されなければならない思想とが極めて不可分のものとして存在していたことを知ることができる。即ち、肉体によって表現される美には終わりがあり、それは決してよみがえる種類のものではないということ。思想は行動によってはじめて??何よりも本人のためにとっての??首尾一貫性を持つということ、などによってである。三島が肉体美に固執したこと。彼がああいう死を遂げたということ。これらは結果に過ぎないのであって、この場合にはそこに至る彼の心象も読み解かない限り、何の解釈にもなりえないだろう。最終章である「革命哲学としての陽明学」の中では、これが諄諄と説かれている。そして、それは確かに筋の通ったものである。彼の死後に残された書物から我々が学び得るものは何なのだろうか。それは、やはり彼の行動を単なる狂気として受け止めることではなく、そういう部分の我々自身における*欠落*という視点における何かを変えるための方法論...ということではないだろうか。我々自身の中の受身である部分のことを考えたときに、それを脱却するためのひとつの処方箋。それが「行動学」なのだということである。

# 本書はその意味で個人的なパーソナリティ形成の上でも
# 影響を受けている本の一冊である。

I 行動学入門

9 行動は始まると論理が終わるまでやむことがない

11-12 目的のない行動はありえない

-/-目的のない行動はあり得えないから、目的のない思考、あるいは目的のない感覚に生きている人たちは行動というものを忌みきらい、これをおそれて身をよける。思考や論理がある目的を持って動き出すときには、最終的にはことばや論理ではなくて、肉体行動に帰着しなければならないことは当然なのである。-/-

-/-行動は迅速であり、思索的な仕事、芸術的な仕事には非常に長い時間がかかる。しかし生はある意味では長い時間がかかり、死は瞬間に終わるのに、人々はどっちを重んじるだろうか。-/-至純の行動、最も純粋な行動はかくしてえんえんたる地味な努力よりも(むろん著者はそれを卑下しているのではない、それはそれとして...ということである:唯野注)、人間の生きる価値、また人間性の永遠の問題に直接に触れることができる。-/-

16

-/-体を動かしているときには、われわれの体自体が全体なのである。したがって、自分の体以外の全体というものはその目に映らない。

16-17

ここに一つの矛盾が起きてくる。われわれは、行動しようとすると自分の体を動かす。しかし、その行動を有効にし、目的に向かって進めようとすれば、かつ幾つかの力を集めて、集団的な力を発揮させようとすれば、どうしてもその全体を統制する行動者にならなければならない。しかし、全体を統制する行動者になることは、無限に自分から肉体的行動の余地をなくしてくことなのである。そこでわれわれは肉体としての全体を次第に失っていき、ついには椅子の上にすわって、目に見えない全体を指揮する第司令官になり、いかなる場合にも第一線に立つことのできない目と頭脳の象徴になってしまうのである。はじめ行動で出発した者も、行動の指導、指揮、命令ということを少しでも自分の責任とし、任務とする場合には、逆に端的な肉体的行動を失う結果になるのである。-/-

19

-/-想像力は人間の行動を掣肘し、勇気をそぎ、躊躇と逡巡を生むもののごとくであるが、同時に想像力こそ人間に圧力を加えて、行動と冒険へ促す母体とも言えよう。

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