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御岳巡礼
現代の神と人

書誌

author青木保
publisher講談社学術文庫
year1994
price800
isbn4-06-159148-7

目次

1感想
2抄録

履歴

editor唯野
?読了
2013.5.6公開

信州御岳山の山岳信仰を多方面から読み解いた本で、その歴史や現代での講活動、そこへの信者の関わり方までを含めて扱った本である。御岳教を他の宗教と分かち、またそれゆえに現代での凋落につながっているのが、その宗教としての自由度の高さであるとし、そこに着目した視線が注がれている。これは解説(p262)でも以下のようにある通りである。

-/-かつての国家神道をはじめとして、あまりに集権的な現代の巨大宗教のもたらすドグマ性を前にして、御岳信仰が象徴する、相対的な宇宙観に示された救済の可能性に思いをめぐらす人びとは少なくないはずである。それは「伝統」を無原則、無批判に賞賛すること、たんに伝統回帰ということではまったくない。社会や信仰の基層を省察してはじめて、むしろ未来に到る指針を探る営為が可能となるのである。-/-

個人的に強く興味を惹いた箇所が二つあり、一つは近年に御岳教で信者となる人には他所では自身の悩みを聞いてもらえる場のない人が増えているのだということ、即ち現代の新宗教が受け皿を担っているともいえる部分への考察の点である。そして、もう一つは明治から太平洋戦争にかけての宗教政策の部分で、国家神道の成立に絡めた既存宗教との関係だった。本書を読んでも国家神道における「作られた宗教」という側面の強いことがよく分かる。これは日本の近代化において必要な施策という面もあったのかもしれないが、グローバル化の現代において似たことをしても意味はない。その意味でも、そういうものの成立過程を知っておくことには意味があると思う。

いずれにせよ、なかなかおもしろい一冊だった。

抄録

15

ピイーやビルマのナッツと日本のカミとの最大のちがいは、日本では神道という宗教形式が確立されてあることであり、ピイーとかナッツに相当するものにある確かな形式と表現として制度をあたえたことである。これは世界の他の地域ではついに出現しなかったことである。本来はピイーやナッツと同じような超自然的存在であり、形式をとくになさない崇拝対象であったものに明確なる制度をあたえたことは日本人の超自然的存在に対する独自のアプローチの仕方であった。-/-

24

この対応の仕方には御岳信仰の特徴がよく現れているのだが、何事も“自然のままに”といった基本的な信仰の態度がそこにあるからだと納得できたのは、この信仰の実態にもっと接してからのことである。

27 cf.28

山に対する信仰は世界各地でみられるが、わが国においても古来山は強い信仰の対象とされてきた。気品高くそびえ立つ秀峰はそれだけで何事か崇拝の的となってしまうところがある。それに山の頂上は天に一番近い場所である。天と地を結ぶところは、それ以外にないと思わずにいられないのも当然であろう。

32-33

生駒勘七氏も宮田登氏も、御岳信仰の歴史を大体四つの時期に分けてみている。生駒氏によると、御岳信仰が全国的に普及するようになるまでには、次の四つの段階があった。

一、修験道の地方道場となり、修験者が修行していた時期。

二、山麓の村落に住みついた道者といわれる人びとが特別な精進潔斎を行なって集団的に登拝を行っていた時期。

三、江戸時代中期に、尾張の覚明、江戸の普寛(ふかん)という二人の行者が登拝を広く一般の人びとに解放して講活動の端緒を作った時期。

四、明治以降、教派神道教団が成立して全国的に普及して行く時期。

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