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三酔人経綸問答

書誌

author中江兆民
editor桑原武夫?島田虔次(訳・校注)
publisher岩波文庫
year1965
price720+tax
isbn4-00-331101-9

目次

1感想
2抄録

履歴

editor唯野
2016.7.25読了
2016.8.2公開

中江兆民の代表作であるが、本だけ持っていて読んでいなかった本。日本の政治もかなり変なことになっている感が強い昨今であるが、逆にこういうときこそ過去の本を読むべきか――と思って読んでみた。即ち、

スマートな風采で、言語明晰な哲学者である洋学紳士は、西洋近代思想を理想主義的に代表する。かすりの和風を着た壮士風の論客は豪傑君とよばれ、膨張主義的国権主義を代表する。進歩はけっして一直線ではなく、まがりくねり、進とみれば退き、退くとみれば進むとする南海先生は、理想をもちながら、その実現においては、時と場所の限定を自覚して慎重でなければならないとする現実主義を代表する。(p265)

と解説にある通り、三人の酔客が明治20年頃の日本に対する天下国家を縦横無尽に論じているわけであるが、同じく解説で触れられているようにあくまで本書が語るのは概論であり各論ではない。しかし、逆にそれによって今読んでみても現代に置き換えられる部分があるのも事実である。むろん、社会が複雑化したことで現代では単純な主義主張のみでは語れない事象が増えているのは事実だし、兆民の主張も論点を絞るために単純化されている部分はある。

しかしながら、彼らが今の時代にいたとしたならば、恐らく自論を展開する前に口を揃えてこういうであろう――現代の政治家にはあまりにも何かを語る以前の原理原則がなく節操がなさすぎる――と。

# 例えば都知事になった小池氏が時の権力者を渡り歩き
# 出馬に関して党に筋を通さなかったのが節操の無さだとすれば、
# TPPその他で簡単に公約を翻し、目先の選挙のためだけに
# 増税を延期する首相も同じ穴の貉ではなかろうか

# ちなみに、いわれるまで気付かなかったが兆民が明治維新期に
# 何の活動もしていないというのは確かに意外だった

抄録

12

先生の友人や、先生の人柄を聞き知った連中で、先生の酔っぱらったときの奇論を聞こうと思い、酒やさかなをたずさえて、先生の宅をおとずれ、いっしょに盃をあげ、酔いが七、八分まわったころを見はからって、わざと国家の大事をきり出し、先生の説を釣り出して楽しみとするものが、時々ある。先生もこうした事情に多少気づいているので、思うには、「このつぎまた国家の問題を論ずるさいは、あまり酔ってしまわないうちに、話の要点をちゃんと書きとめておき、いつかまたそれを取出して議論を展開し、小さい本を一冊つくったならば、自分の楽しみにもなり、他人も喜ばすことができるかもしれん。そうだ、そうだ。」

13

一人は着もの、はきもの、上から下までみな洋風で、鼻すじ通り、目もとすずしく、身体はすんなり、動作はきびきびとして、言語明晰である。この人はきっと思想という部屋で生活し、道義という空気を呼吸し、論理の直線のままに前進して、現実のうねうねコースをとるということをいさぎよしとせぬ哲学者にちがいない。もう一人は、背がたかく腕がふとく、あさぐろい顔、くぼんだ目、カスリの羽織、きりりとした袴、見ただけでも、雄大ごのみで冒険を喜び、生命という大切なものをエサにして、功名という快楽を釣りあげようとする豪傑連中の仲間とわかるだろう。

席につき、挨拶がすみ、おもむろに洋酒がつがれ、主人とお客が盃のやりとりをするうちに、しだいにいい調子になってくる。先生は、一人の客を紳士君とよび、もう一人を豪傑君とよんで、姓名をたずねようともしない。お客の方でも怒らず、ただ笑っている。-/-

14-15

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