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遊学(全2冊)

書誌

author松岡正剛
publisher中公文庫
year2003
price1000+tax
isbn4-12-204260-7(1巻)

履歴

editor唯野
2004.3.9読了
2013.2.24公開

インターネット全盛の今の時代において、著者のように博覧強記をひけらかすのではないかたちで、自由自在に事物を論じられる人は少ない。即ち厖大なバックボーンの存在を感じさせながらも、それを必要最小限にして、それでいて論旨を乱れずに展開できる人は少ない。これは博覧強記というだけで博士になれた一昔前とは違う。ネットや Wikipedia を用いて、大抵のことなら、その場で調べられてしまう今の時代では、逆に底が浅くても論旨の主張だけなら簡単にできる。一方、薀蓄をただ語り尽くすのも容易だ。今の時代の問題は有象無象のバックボーンを使いながらも、それを自分の言葉にまとめ上げ、そして主張できることなのだから...

本書は著者の若い頃の文章を集めたものだが、それでも十分に刺激的である。むろん、全般的に内容が数学や素粒子、不確定性原理などに偏りがちな点は著者もあとがきにて認めているところではある。しかし、不確定性原理で触れられているような不確定性が真理の存在に対してどの程度の確定性を持ち得るのか ? といった議論、また著者独特のものの見方は意外性があって、飽きることがない。

初読はかなり前になるのであるが、今読んでみても十分におもしろい。積ん読になっている他の本も読まなければ...

抄録(I巻)

13

神の設定は、われわれの歴史における最も大胆な構想だった。この設定をこえる企画はいまのところはあらわれていない。せいぜい宇宙生命やアンドロイドであるが、それならとっくに古代観念がとびきりのイコンたちをつくりあげていた。-/-

15/17

思索とは自己を編集することである。

しかし、そのときの主語は主語によって消尽されなければならない。

つねに述語が残されるものなのだ。

-/-本書は述語のための遊学を企てる。

19

古代はつねに象徴にとりかこまれていたが、その多様な象徴の関係を仕切る時代でもある。それにはひとつの規矩が必要となる。その規矩に照らして、それぞれの象徴をたがいに対応させるのが哲人とよばれるものたちの仕事だった。そこでは象徴と道具がおなじものとなり、数と形がひとつの比例(ラティオ)をもった。そこに抽象が芽生え、認識としての幾何学(数学)が誕生する。-/-

21

今日のわれわれは「数」を単位数のよせあつめとして考えている。3は1に1を、さらに1を加える作業の結末である。数は単位数の反覆として認識される。

しかし、この認識の次第はピタゴラス派では逆立してしまう。単位数の分割が数なのである。ひらたくいえばかれらには「単位数の複数」がない。そのかわり、もろもろの数とはべつに「1の数」が具体的な存在としてある。このような「単位数が数の一部をなすのではなくて数が単位数の一部をなす」という構想こそが、われわれにとってなじみの直線分割思想をくつがえすピタゴラス派の円周分割思想のとびきりのアクシスになっている。

これはすなわち「封の哲理」であり、-/-

23-25 cf.26

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