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責任の所在のない国

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editor唯野
2020.1.2公開
2020.1.4修正
2020.1.5修正

昨年の「桜を見る会」をめぐる首相の逃げっぷりはいうに及ばず、関電の贈収賄疑惑に象徴されるように、今の日本では既に民主主義が危機的状況にある。しかし、それは何よりも責任の所在と結果を検証するしくみの欠如が大きな元凶であると私は思う。

通常、人の上に立つとか、何かの代表を務める場合、権限が付与されるのは、当然ながら同時に責任が伴うからである。都合の良い結果だけを受け入れるようなトップはトップといわない。都合の悪い結果が上がった場合にも、それに応じた説明を含めた責任を取る義務がある。というよりも、その対処にこそ「その人」が現れるというべきかもしれないが...

ところが今の日本では高い地位になるばなるほど、このモラルが通用していない。普通は逆だ。高い地位ほど強い責任を伴うのであって、高い地位になるほど責任を免れるなどという話にはならない。こんな当たり前のことさえ通用しないほどにモラルが崩壊している。地位が特権を伴ったとしても義務が免除されるわけではないのに混同されている。

「桜を見る会」を巡る政府側の答弁の数々は滅茶苦茶だった。一貫性もない上に支離滅裂だった。これは、当然ながら今の与党(自公)が逆に何かを聞く立場になったとしても、まともに答える必要のないことを意味している。全て「判断できない」であるとか「(実際はあっても)記録はない」などと返事すればよい。まさか、自分たちのやっていたことを自分たち以外からされたとて怒りはすまい。

そして、安倍政権のひどいところはいくらでもあるが、個人的に最も良くないと思うのが統計基準の勝手な変更、統計記録の改竄、公的記録の破棄である。「放射能の数字が高いけど基準の方を緩くしたので大丈夫です」とか、「統計の集計方法を変えたので経済成長しています」とか、それは現実には何の問題の解決にもなっていない。

というよりも、むしろそういうことをしている時点で、実際には成果の出せていないことを暗黙的に認めている。数字で結果を出せないから、数字の方を変える。もしくは記録をなかったことにする。問題の検証手段をなくせば問題がなくなるのなら、それは職務の放棄に等しい。企業なら粉飾決算相当だと思うが、上述した通り今の日本では東芝だろうが東電だろうが、企業人も大企業になるほど責任を取らない。

さらにいえば公約を公然と翻しても誰も責任を取っていない(例えば自民党はTPPに反対していたはずだが推進に転じ、その後トランプがTPPを無視したら、今度は二国間協議に走った)。私がいう民主主義が危機的状況にあるというのは、公約・統計・会計・公文書による悪い結果に対して然るべき説明と責任を取るルールが存在せず、結果的に組織が新陳代謝されることもないため、(その状況ではモラルを守らない方が利益になるから)モラルや矜持は失われていく一方となり、社会的・公的な意味での前進・やりがいを追及する気概もなくなっていくことを指している。それが社会の停滞を生んでいる。

必然的にそのような社会では、やりがいであるとか楽しみというものも個人的なもの、極論すれば自分さえよければいいというところにまで堕する可能性が高い。なぜなら、公的なモラルがまもとに機能していないので、そのために頑張るのは合理性を欠くことになってしまうからだ。

要は自己利益の最大化には関心を示すが、逆にいえば(金銭・時間・権利を含む)自分にとって不利益となることへの拒否感、その一方で他人の不利益には無関心な社会ということである。それが歪んだ個人主義(個人の自由)につながっている。権利を守るためには積極的な行動が必要なのに、他者への不干渉という消極的な行動で済ませている。だから政府が制度の改悪をしても大きな声も上がらず、ますます政府は好き放題をすることになる。権力の増長を防ぐためには、国民の厳しい視線が不可欠な理由である。

日本社会が衰退しているのは当然だ。然るべき新陳代謝が行なわれていないからである。つまり、今の日本で何が醜いかというと、不祥事に関わった人間の引き際の悪さが揃いも揃って醜悪すぎるのだ。

だから政府や企業に限らず、一定限度を超える不祥事・失敗に対しては必ずトップと当事者を退任させて、そのような場合には(トップなら会長・顧問のような立場も認めず)一切の役職に就くことを(10年単位くらいで)認めないルールが必要だと私は思う。要は高い地位になるほど厳しい懲戒解雇を義務付ける。そうでなければ、上級職はただの役得でしかなく、全てがナアナアで済まされることになる。不祥事を起こした人間が天下りできるのなら、事態の改善・問題の根絶は不可能だろう。

ところが、これが政財官のみならず学者やマスコミを含めて構造的に補完し合うかたちで成り立ってしまっている。それゆえ、個人的には極めてこの国の将来に対して悲観的である。部分的に手を入れるだけでは事態が好転しないレベルにまで達しているからだ。統計は独立機関で第三者がチェックし、情報公開には例外を設けないくらいのことをすべきだが、これも最近は内閣府直下で都合よく扱えるように改悪されたばかり。

もちろんマスコミも軽減税率のエサに釣られて、政権の批判さえまもとにしていない。だいたいマスコミのお偉いさんが首相とのお食事会を喜んでしている民主国家など聞いたことがない。不祥事に対する追及こそがマスコミの存在意義だと思うのだが、権力者への問題を検証せず隠蔽や論点のすりかえを継続的に攻撃しないのなら、御用学者・御用マスコミと呼ばれても仕方がない。

当然、自国の民主主義に対する危機意識も低いから、他国のことにも関心が薄い。ウイグル・香港への中国政府による弾圧を非難したアメリカ議会と比べて、なぜ隣国の日本でこそ超党派で中国を非難しないのか ? 中国を攻撃するネトウヨなど、これを非難しないということは、共産主義による暴力と監視社会を容認するのだろうか。改憲などというのであれば、世界に冠たる民主主義国家、平和主義国家として誇れる国にする方が、はるかに先にすべきことではないのか。

私は既に日本は中流国家の国力しかないと思っているし、国際的にもそう思われているのが現実だろう。中流国家なら中流国家らしく大人しくすべきなのに、意識だけは大国のつもりでいるのなら、世界の中で失笑を買う機会が増し、必然的にそれは更なる国際的な地位や発言力の低下をもたらすのだと思う。そして、ネトウヨが馬鹿にしている、韓国や中国こそが、そういう日本の「失敗」を自国に教訓として生かすのだろう。

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